LOGIN弁護士事務所を出たとき、沙耶は自動ドアの前で一度立ち止まった。
十月の風が、建物の中で火照っていた頬を冷ましていく。
相談時間は一時間だった。
たった一時間なのに、自分の結婚生活をまるごと机の上へ並べ、第三者に値踏みしてもらったような疲労が残っていた。
もちろん、担当した女性弁護士の橘はそんな態度ではなかった。むしろ沙耶が事実を説明する途中で何度か言葉に詰まると、急かすことなく待ち、「思い出せる範囲で大丈夫です」と淡々と話を進めてくれた。
その淡々とした態度に救われた。
可哀想な妻として同情されるより、今の沙耶にはずっとありがたかった。
夫が半年間不倫していること。
相手は夫が経営する会社の社員で、既婚者だと知っていたこと。
二人が将来について話し合ったうえで、自宅まで来て離婚を求めたこと。
そして沙耶が結婚後に仕事を辞め、現在は夫の収入を中心に生活していること。
一つずつ説明していくと、それまで感情の塊だったものが、少しずつ「処理しなければならない問題」へ形を変えていった。
離婚する。
そう決めたのなら、次に必要なのは泣くことでも遼一を責め続けることでもなく、自分がこれから生活するための準備だった。
橘から渡された書類の入った封筒を、沙耶はバッグの中で確かめる。
財産分与について確認するもの。
預貯金。
有価証券。
保険。
不動産。
退職金に関する資料。
婚姻期間中に夫婦で形成した財産については、名義だけで判断しないこと。
今までなら、遼一の口座の残高を細かく確認することなど考えもしなかった。
家計については沙耶が管理していたものの、会社経営に関わる資産と私的な資産を混同しないよう、遼一が個人で保有しているものまですべて把握していたわけではない。
夫婦なのだから、必要になれば話せばいい。
そう思っていた。
必要になる日が、離婚のために来るとは考えていなかっただけだ。
そして慰謝料。
遼一だけでなく、事情次第では莉奈へも請求できる可能性がある。
それについても、沙耶は感情で決めないと橘に伝えた。
「相手の女性を破滅させたい、という気持ちは今のところありません。ただ、何もしなかったことにするのも違うと思っています」
そう話すと、橘は少しだけ口元を緩めた。
「今決めなくて大丈夫です。むしろ、急いで感情の結論を出さないほうがいいでしょう。法律で認められている請求をすることと、復讐することは別ですから」
その言葉が、沙耶には妙に残った。
権利を使うことと、相手を憎むことは別。
今までの自分なら、「揉めたくないから」と何も求めなかったかもしれない。
けれど、それではいけない気がした。
誰かに損をさせたいからではない。
これからの自分が、「面倒だから全部譲った」と後悔しないために。
沙耶は駅へ向かって歩き出した。
途中、遼一からメッセージが届いた。
『相談、終わった?』
以前なら、すぐ返信していた。
今は信号待ちの間に画面を眺め、それから短く打つ。
『終わった。これから帰ります』
数秒後、既読がついた。
『昼は?』
何のことか分からず、沙耶は眉を寄せた。
『食べた?』
続けて届いた文面を見て、少しだけ可笑しくなる。
こんなときでも遼一はこういうことを聞く。
夫として気遣っているのか、七年間の癖なのか、本人にももう分からないのかもしれない。
『まだ。帰る途中で何か食べる』
『分かった』
そこでやり取りは終わった。
沙耶はスマートフォンをバッグへ戻した。
昨日までなら、「あなたは?」と返していただろう。
聞かなかった自分に、小さな罪悪感が生まれた。
けれど、その罪悪感まで抱え続ける必要はないのだろう。
遼一は三十七歳の大人なのだから。
昼食くらい、自分で決められる。
駅前のカフェで簡単なサンドイッチを食べ、沙耶がマンションへ戻ったのは午後一時を過ぎた頃だった。
遼一はすでに会社へ出たらしく、家の中は静かだった。
玄関には、昨夜まで遼一が履いていた革靴が一足減っている。
それを見て、沙耶は少し安心した。
今日やろうと決めたことを、夫のいる前でする自信がなかったからだ。
寝室へ入り、クローゼットを開けた。
二人分の服が並んでいる。
左側が遼一。
右側が沙耶。
結婚した頃から自然にそうなった。
沙耶はベッドの下から旅行用の大きなスーツケースを二つ引き出した。
一つ目を開く。
何から入れればいいのか分からなかった。
こういう場面では、もっと勢いよく荷物を詰められるものだと思っていた。
裏切った夫の家など一刻も早く出ていく。
服を鞄へ放り込み、指輪を置き去りにして、颯爽と扉を閉める。
そんな姿なら格好いい。
現実の沙耶は、自分のブラウスを一枚手に取ったまま、
「これは持っていっていいのよね」
などと馬鹿なことを考えていた。
自分の服なのだから、当たり前だ。
それでも七年間暮らした家では、どこからどこまでが「私のもの」なのかが曖昧になっていた。
ハンガーから服を外し、畳んでいく。
普段着。
下着。
仕事をしていた頃から持っているジャケット。
黒いパンツ。
少し古くなったパンプス。
結婚してからほとんど着なくなったスーツもあった。
沙耶はそれを広げた。
ホテルグループに勤務していた頃、重要なプレゼンの日によく着ていた濃紺のスーツだった。
最後に袖を通したのはいつだろう。
退職の日だったかもしれない。
生地はさすがに少しくたびれている。
それでも捨てられなかった。
「まだ着られるかな」
自分の肩へ当て、鏡を見る。
七年前より少し痩せた。
顔も変わった。
三十四歳。
もう「若手」と呼ばれる年齢ではない。
七年のブランクがある。
橘にも言われた。
離婚後の生活を考えるなら、収入を得る準備は早めに始めたほうがいい、と。
怖くないわけではない。
むしろ怖かった。
十八歳や二十二歳なら、失敗してもやり直せると思えたかもしれない。
三十四歳で、七年間職歴が途切れている。
かつて働いていた業界も変化しているだろう。
スマートフォンを使った広告やSNS戦略など、沙耶が現場を離れた頃よりずっと重要になっている。
「簡単じゃないよね」
鏡の中の自分へ言った。
その直後、昨日の遼一の言葉を思い出す。
仕事だって、昔みたいにすぐ戻れるとは限らない。
あれが正論だったことは分かっている。
だから余計に腹が立ったのだ。
遼一の言うとおりになるのが嫌なのではない。
自分自身も同じ不安を抱えていたから。
沙耶はスーツを丁寧に畳み、スーツケースへ入れた。
「だから、やるしかない」
誰かに聞かせる必要はなかった。
次に書斎へ入る。
この部屋は遼一の仕事場ということになっているが、収納棚の一角には沙耶の昔の資料も残してあった。
退職するときに持ち帰った企画書。
携わったホテルのパンフレット。
広告キャンペーンの資料。
プレゼンの下書き。
昔の手帳。
何度か捨てようと思ったことがある。
もう使わないだろうから、と。
それでもなぜか処分できなかった。
沙耶は段ボール箱を引き出し、埃を払った。
一番上にあったファイルを開く。
表紙には七年以上前の日付。
若い自分の字で、
『地域滞在型ホテル リブランディング企画』
と書かれていた。
懐かしい。
地方の古いホテルを若い旅行者にも利用してもらうための企画だった。
最初の提案は上司に散々直され、何度も作り直した。
最終的には採用され、それなりに成果も出た。
あの頃の自分は、朝起きれば仕事へ行き、誰かと議論し、失敗し、怒られ、それでも自分の名前で何かを作っていた。
いつの間にか、
「神崎社長の奥様」
と呼ばれる時間のほうが長くなった。
それが嫌だったわけではない。
けれど、沙耶という一人の人間まで消えたわけではないはずだ。
資料を箱へ戻す。
全部持っていこう。
次に本棚から、自分で買った仕事関係の本を抜き出す。
経営。
マーケティング。
広告。
接客。
ホテル運営。
その半分以上は、遼一の仕事を手伝うために買ったものだった。
だが、読んだのは自分だ。
知識も、自分の中に残っている。
それなら、持っていっていい。
一冊ずつ段ボールへ詰めながら、沙耶は少しずつ呼吸が楽になるのを感じた。
服よりも本。
宝飾品よりも仕事の資料。
今の自分が持っていきたいものを選んでいくと、これから何をしたいのかがぼんやり見えてくる。
最後に、寝室のチェストを開けた。
奥に小さな桐箱がある。
祖母の形見だった。
蓋を開けると、中には古い真珠のブローチが入っている。
高価なものではない。
祖母が若い頃から使っていたもので、沙耶が結婚するとき、
『高いものはお義母さんからいくらでももらうでしょうから、私はこれでいいわ』
と笑って渡してくれた。
祖母はもういない。
形見を掌に載せると、急に涙がこみ上げた。
昨日から、何度も泣いた。
それでもこの涙は少し違った。
もし祖母が生きていたら、何と言っただろう。
遼一を許しなさいと言っただろうか。
すぐ離婚しなさいと言っただろうか。
沙耶には分からなかった。
ただ、祖母は沙耶が子どもの頃、何かあるたびにこう言った。
『自分で決めなさい。人に決めてもらったことは、失敗したときに人のせいにしたくなるから』
当時は厳しいと思った。
今なら少し分かる。
沙耶はブローチを桐箱へ戻し、バッグの底へ大切に入れた。
午後三時を過ぎる頃には、スーツケース二つと段ボール箱三箱がまとまっていた。
それ以上になると、一人では運べない。
家具は置いていく。
家電も必要ない。
宝石箱を開けると、遼一から贈られたアクセサリーがいくつか入っていた。
結婚記念日のネックレス。
誕生日のピアス。
社長就任が決まった年、「俺ばっかり祝ってもらってるから」と遼一が買ってきた腕時計。
沙耶は一つずつ眺めた。
思い出がある。
だからといって、すべて捨てる必要はない。
一方で、今それを持っていく気にもなれなかった。
財産としてどう扱うべきかも確認したほうがいい。
沙耶は宝石箱を閉じ、そのまま引き出しへ戻した。
車の鍵も置いていく。
マンションの家具にも触れない。
「何もいらない」と言うつもりではなかった。
むしろ逆だった。
法的に自分に認められるものは、きちんと整理したうえで受け取る。
だから感情に任せて、目につくものを全部持ち出したりはしない。
それが今の沙耶には、一番納得できるやり方だった。
問題は、行き先だった。
ホテルを取ることも考えた。
けれど長引けば費用がかかる。
実家へ戻るという手もあるが、両親にはまだ何も話していない。
今すぐ母親の「どうしてそんなことに」という質問を受け止める自信がなかった。
沙耶はスマートフォンを手にした。
連絡先を開く。
ある名前の上で指が止まる。
水野由香。
ホテル勤務時代の同期であり、今でも年に数回は会う親友だった。
ただ最近は、以前ほど頻繁には連絡していなかった。
由香に、
『元気?』
と聞かれるたび、
『元気だよ』
と答えてきた。
本当に元気だと思っていた。
あるいは、元気ではないと認めたくなかった。
電話ボタンを押す。
数回の呼び出し音で繋がった。
『もしもし? 沙耶? 珍しい。どうしたの、この時間』
声を聞いただけで、少し気持ちが緩んだ。
「由香、今仕事中?」
『今日は休み。美容院の帰り。何、声おかしくない?』
昔からこういう人だった。
挨拶の次にはもう異変に気づく。
沙耶は笑おうとした。
うまくいかなかった。
「ちょっと、お願いがあるんだけど」
『お金以外ならだいたい聞く』
「お金じゃない」
『じゃあ何』
沙耶は一度息を吸った。
「数日、泊めてもらえないかな」
電話の向こうが静かになった。
数秒後、由香の声が低くなる。
『遼一さんと何かあった?』
沙耶は答えられなかった。
それだけで由香には十分だったらしい。
『今どこ?』
「家」
『一人?』
「うん。遼一は会社」
『荷物まとめた?』
沙耶は驚いた。
「……まとめた」
『じゃあ住所分かってるよね。来な。理由は来てから聞く』
「でも、急に迷惑じゃ――」
『沙耶』
由香の声が強くなった。
『あんたが「泊めて」なんて言うの、私が知り合ってから初めてなんだけど。そんなときに遠慮されるほうが腹立つ』
その言葉に、沙耶の目から涙が落ちた。
慌てて拭う。
「ありがとう」
『泣いてる?』
「泣いてない」
『その嘘、昔から下手だよ』
「うるさい」
『はいはい。タクシー使いな。荷物多いなら着いたら下まで取りに行くから』
「段ボール三箱ある」
『多いわ。数日って量じゃないでしょ』
沙耶は黙った。
由香もそこで何かを察したのだろう。
先ほどまでの軽い調子が消えた。
『……離婚するの?』
その言葉を親友の口から聞くと、急に現実味が増した。
沙耶はゆっくり答えた。
「する」
『そっか』
由香はそれ以上、電話では聞かなかった。
『じゃあ来な。今日は飲もう。あんたが飲める状態ならだけど』
「たぶん飲んだら泣く」
『泣けばいいじゃん。うちの床、多少濡れても腐らないから』
思わず笑った。
涙を拭きながら笑うという器用なことを、自分ができるとは思わなかった。
「分かった。行く」
通話を切ったあと、沙耶はしばらくその場に立っていた。
行き先ができた。
たったそれだけなのに、家を出ることが急に現実になった。
午後五時前。
遼一が帰ってきた。
予定よりずっと早かった。
玄関が開いた音を聞き、沙耶は寝室で段ボール箱のふたを閉じる手を止めた。
「沙耶?」
声がする。
「寝室にいる」
遼一が入ってきた。
そして部屋の中を見て、足を止めた。
床には二つのスーツケース。
段ボール箱。
いつも服が並んでいたクローゼットには、沙耶の衣類が半分以上なくなっている。
遼一の顔から血の気が引いたように見えた。
「何してるんだ」
「見れば分かるでしょう」
「出ていくのか?」
「うん」
「今日?」
「今日」
遼一は数秒、何も言わなかった。
やがて一歩部屋へ入ってくる。
「昨日、俺がホテルを取るって話しただろ」
「そうね」
「なら俺が出る。沙耶が出ていく必要ない」
「考えたんだけど、私が出ることにした」
「どうして」
「ここにいると、何を見てもあなたとの生活を思い出すから」
遼一が言葉に詰まる。
沙耶は段ボールへガムテープを貼った。
「それに、あなたがここにいない間まで、帰ってくるのを待ってしまいそうなの」
自分でも、言うつもりのなかった本音だった。
遼一の表情が揺れた。
沙耶は苦笑した。
「まだ、そういう癖が抜けないから」
「だったら、急いで出なくても――」
「だから出るの」
沙耶は夫を見た。
「私、あなたを嫌いになって出ていくわけじゃない。たぶん嫌いだったら、もっと簡単だった。でもこの家にいると、昨日までみたいに夕方になれば『何時に帰るかな』って考える。スーパーへ行けば、あなたが食べるものを買いそうになる。そういうのを一つずつやめないと、私はいつまで経ってもあなたの妻のままでしょう」
遼一は黙り込んだ。
その顔には、昨日までの苛立ちがなかった。
ただ、何かを飲み込みきれないような戸惑いがある。
「どこへ行くんだ」
「由香のところ」
「水野さん?」
「覚えてるの?」
「結婚式にも来てたし、何度か会っただろ」
「そうだったね」
昔なら、遼一が自分の友人を覚えていることが嬉しかった。
今はそれさえ思い出になる。
遼一は部屋の中を見渡した。
「何持っていくんだ」
「服と本。昔の仕事の資料。それと祖母の形見」
「それだけ?」
「当面はね」
「宝石とかは?」
「置いていく。あとで財産関係も含めて整理するから、勝手に処分しないで」
「するわけないだろ」
少し傷ついたような言い方だった。
沙耶は一瞬謝りそうになり、やめた。
「車も置いていく。家具も家電もそのまま」
「沙耶」
「何?」
「別に、何も持っていくななんて言ってないぞ」
「分かってる」
「金も必要だろ。しばらく働いてないんだから」
その言葉には悪意がなかった。
だからこそ、沙耶は慎重に答えた。
「必要なものは、手続きの中できちんと決める。今ここで、あなたからお小遣いみたいに受け取るつもりはない」
「お小遣いって……夫婦の金だろ」
「そう。だからちゃんと分けるの」
遼一は何も言わなかった。
沙耶はクローゼットの奥をもう一度確認する。
忘れ物はない。
そう思ったとき、遼一が言った。
「本当に今日出ていくのか」
声が妙に低かった。
「そう言ったでしょう」
「いや、聞いたけど……」
遼一はベッドへ腰を下ろした。
その姿に、沙耶は少し驚いた。
二日前、自分から離婚を告げた男とは思えないほど力が抜けている。
「なんでそんな顔するの?」
「どんな顔だよ」
「私が出ていくと思ってなかったみたいな顔」
遼一はすぐには否定しなかった。
「……離婚の話がまとまるまでは、ここにいると思ってた」
「同じ家に?」
「ああ」
「葉山さんと付き合ったまま?」
遼一が黙る。
沙耶は思わず小さく笑った。
「それは無理よ」
「莉奈をここに連れてくるつもりなんてない」
「そういう問題じゃない」
「分かってるけど」
「分かってないから言ってるの。あなたが毎日会社へ行って、葉山さんと会って、場合によっては仕事のあとも一緒にいて、それからこの家へ帰ってくる。私はその帰りを待つ。そんな生活を、離婚が成立するまで続けろってこと?」
「待てとは言ってない」
「でも、私は待ってしまうの」
沙耶は静かに言った。
「まだ二日前まで妻だったから」
遼一が俯いた。
その姿を見ていると、胸が痛む。
それでも、ここで痛みに負ければまた元へ戻る。
元へ戻ったところで、不倫がなかったことにはならない。
遼一の気持ちも戻らない。
沙耶はスーツケースを立てた。
「タクシー呼ぶね」
「送る」
「いい」
「荷物あるだろ」
「タクシーで行ける」
「俺が送る」
「遼一」
「最後くらい送らせろよ」
最後。
その言葉が、胸に刺さった。
沙耶は少し迷ったが、首を横に振った。
「やっぱりいい」
「なんで」
「あなたに送ってもらったら、由香の家に着くまでまた夫婦みたいに話すでしょう。たぶん私、それがつらいから」
遼一は何も言えなくなった。
沙耶は配車アプリを開いた。
数分後に車が来る。
その間、二人で荷物を玄関へ運んだ。
重い段ボールを遼一が持ち上げる。
「これ何入ってるんだよ。重いな」
「本」
「こんなに?」
「ほとんどあなたの仕事を手伝うために買った本だけどね」
遼一の足が一瞬止まった。
「……そうか」
それ以上は言わなかった。
玄関に荷物を並べる。
七年前、二人でこの家へ引っ越してきた日は、何十箱もの段ボールがあった。
届いた家具を二人で組み立て、遼一が棚の向きを間違えて、夜中まで笑った。
家族になるための荷物はあんなに多かったのに、家族をやめるための荷物はこれだけだった。
沙耶は玄関棚を見る。
結婚指輪。
昨日置いた場所に、そのままある。
遼一もそれを見た。
「指輪は?」
「置いていく」
「持っていけばいいだろ」
「今はいらない」
「でも沙耶のものだ」
「そうね」
沙耶は少し考え、結局指輪を手に取った。
掌に載せる。
小さな輪。
七年間のすべてが入るほど大きなものではない。
「じゃあ、持っていく」
「……うん」
「売ったりしないから安心して」
「そんな心配してない」
「冗談」
遼一は笑わなかった。
沙耶も笑えなくなった。
インターホンが鳴る。
タクシーが到着した。
遼一が段ボールを持とうとする。
「下まで運ぶ」
「ありがとう」
そこだけは断らなかった。
二人でエレベーターへ乗った。
鏡張りの壁に並んで映る。
夫と妻。
見た目だけなら、昨日までと何も変わらない。
沙耶はふと思い出した。
このマンションへ引っ越した最初の日も、遼一と二人でこのエレベーターに乗った。
新しい家に向かう途中、遼一は沙耶の手を握り、
『ここでずっと暮らせたらいいな』
と言った。
沙耶も、
『おじいちゃんとおばあちゃんになるまで?』
と笑った。
『その頃にはもっといいところ買ってる』
『もう十分いいところでしょう』
『夢がないな』
そんな会話をした。
七年後、同じエレベーターで自分は家を出ていく。
人生というものは、本当に予定どおりにはならない。
一階へ着く。
遼一が荷物をタクシーのトランクへ積んでくれた。
最後の段ボールを載せると、運転手が「これで全部ですか」と尋ねる。
沙耶は答えた。
「はい。全部です」
言ってから、その言葉が妙に響いた。
七年間の暮らしから持ち出すもの。
全部。
服。
本。
仕事の資料。
祖母の形見。
それだけ。
沙耶は後部座席のドアに手をかけた。
「じゃあ」
遼一が立っている。
「着いたら連絡して」
「する必要ある?」
思わず聞くと、遼一は少し顔をしかめた。
「心配くらいするだろ」
その言葉に、沙耶は返事を迷った。
夫婦を終わらせるからといって、人間としての情まで一瞬で消えるわけではない。
たぶん、それは自分も同じだ。
「分かった。着いたら連絡する」
「ああ」
「それと、家にあるもの、勝手に動かさないでね。弁護士さんから連絡がいくと思うから」
「分かった」
「郵便物も」
「取っておく」
「お義母様には、まだ何も言わないで。私から話すかどうかも含めて決めたい」
遼一の顔が少し強張った。
母親への説明を考えていなかったのかもしれない。
「母さんには……俺から言うよ」
「そのときは、不倫のこともちゃんと話して」
「そこまで言う必要あるか?」
沙耶は夫を見た。
「私が勝手に家を出たみたいに思われるのは嫌」
遼一は言葉を失い、やがて頷いた。
「分かった。ちゃんと話す」
「ありがとう」
沙耶は車へ乗り込んだ。
ドアが閉まる。
窓の向こうに遼一が立っている。
運転手が行き先を確認し、車が静かに動き始めた。
遼一の姿が少しずつ遠ざかる。
沙耶は振り返らないつもりだった。
それなのに、一度だけ後ろを見た。
遼一はまだ同じ場所に立っていた。
追いかけてはこない。
当然だ。
追いかける理由などない。
自分から離婚を望んだ人なのだから。
それでも胸が痛んだ。
沙耶は前を向いた。
涙が一粒だけ落ちた。
拭う。
もう一粒。
それも拭った。
泣くのは構わない。
戻らなければいい。
七年間暮らしたマンションが交差点の向こうへ消えた。
バッグの中でスマートフォンが震える。
遼一かと思った。
違った。
由香からだった。
『マンションの前に着いたら連絡して。荷物取りに行く』
たった一文。
沙耶は画面を見つめ、それから返信した。
『今向かってる。ありがとう』
送信してから、窓の外を見る。
街は何も変わっていない。
夕方の道路は混み始め、会社帰りの人が駅へ向かい、コンビニの前では高校生が笑っている。
自分の結婚が終わろうとしていても、世の中は普通に動いている。
それなら、自分も動けばいい。
急がなくていい。
格好よくなくてもいい。
昨日までの生活へ戻らない方向へ、一つずつ。
沙耶は膝の上に置いたバッグへ手を添えた。
その中には、七年前に置いてきたはずの自分の仕事が入っている。
今のところ、それがこれからの人生につながるものかどうかは分からない。
ただ、何も持っていないわけではなかった。
夫の姓を失っても。
妻という立場を失っても。
自分には、まだ自分が残っている。
そう思えただけで、窓の向こうの景色がほんの少し違って見えた。
第25話 妻に頼らず仕事を回すために、会社を変えなければならなかった翌朝、遼一が出社すると、昨夜自分で追加した一枚の資料が机の上に残っていた。『この商品を、誰のどんな時間に置くのか』見出しだけなら、以前沙耶が作っていた資料とよく似ている。だが、中身はまだ半分しか埋まっていなかった。三十五歳から五十歳を中心とする既存顧客。仕事を終えて帰宅した夜。休日の朝。来客前。自分のために部屋を整えたいとき。贈答用なら、親しい相手の新居祝いや誕生日。いくつか書いてみたものの、どれもどこか商品企画書らしい言葉で、生活の匂いが薄い。遼一は椅子へ腰を下ろし、しばらくその一枚を見つめた。沙耶へ聞けば早い。その考えは昨夜すでに捨てた。ならば会社で作るしかない。問題は、誰に作らせるかではない。どうすれば今後も会社の中で考えられるようになるかだった。午前九時、遼一は秘書へ内線を入れた。「長谷川部長と商品企画の高田課長、それから営業から一人、EC担当から一人。十時に小会議室を押さえてくれ」『広告代理店も呼びますか?』「今日はいい。社内だけでやる」『承知しました』通話を切り、遼一は資料を閉じた。以前なら、各部署から上がってきた情報を自分がまとめ、最後に沙耶へ見せる。それで十分だと思っていた。会社の中で作れない部分を、家庭で補っていたのだ。しかも無料で。その状態を「自分は仕事ができる」と思っていた。認めたくないが、そこはもう認めるしかない。十時。小会議室に集まったのは、マーケティング部長の長谷川、商品企画課長の高田、法人営業の女性課長・野村、EC担当の三十代男性・石井だった。全員、急な招集に少し戸惑っている。遼一は昨夜作った一枚を配った。「今日は広告案を決める会議じゃない」長谷川が資料を見る。「これは?」「新
第24話 元妻がいなくなって初めて、会社の会議が噛み合わなくなった神崎ライフスタイルの新商品発表会まで、残り三週間。午前九時から始まった広告戦略会議は、一時間二十分を過ぎても結論が出ていなかった。遼一は会議室の正面で腕時計を確認し、目の前の資料をもう一度めくった。新商品は、ホテル客室や一般家庭向けに展開する高価格帯のルームフレグランスシリーズだった。香りそのものは悪くない。開発には一年近くかけている。容器のデザインにも金をかけた。大手百貨店二社との商談も進み、自社ECだけでなくホテルのアメニティ展開も視野に入れている。会社としては、今期後半の柱にしたい商品だった。だからこそ、広告で失敗するわけにはいかない。「もう一度整理しましょう」遼一が言うと、広告代理店の担当者がパソコンを操作した。大型モニターへ、三種類のキービジュアルが映る。一つ目は、若い女性モデルを全面に出した華やかな案。二つ目は、白を基調に商品だけを見せる高級感重視の案。三つ目は、ホテルの客室を背景にしたライフスタイル提案型。どれも悪くない。だが、どれも決め手がない。「葉山さんは一案目を推すんですよね」マーケティング部長の長谷川が確認すると、莉奈が頷いた。「はい。SNS広告まで考えるなら、一番止まってもらいやすいです。商品だけの静物だと、高級感は出ても拡散は弱いと思います」「でも既存顧客は四十代以上が中心だ」営業本部長が言う。「若い女性へ振りすぎると、今までのブランドイメージから浮かないか?」「だから今回は新規層を取りにいくんじゃないんですか?」莉奈はすぐに返した。「既存顧客だけ見ていたら市場は広がりません。二十代後半から三十代前半の女性を取るなら、今までと同じ見せ方では駄目だと思います」言っていることは間違っていない。遼一も、当初はその方向を支持していた。しか
第23話 私の企画が、七年ぶりに採用されたホテル・アステリアの改善案を正式に提出する日の朝、沙耶は目覚ましが鳴る十分前に目を覚ました。眠れなかったわけではない。むしろ前夜は珍しく早めに布団へ入った。それでも体のどこかが今日を意識していたらしく、目を開けた瞬間から頭の中に資料の構成が浮かんだ。由香の家へ来てから何度も使ったダイニングテーブルには、昨夜のうちにまとめておいた書類が置いてある。最終案は二十八ページ。最初に考えていたより、ずっと地味な内容になった。大規模改装はしない。若者向けへ一気にブランド転換もしない。新しいレストランを作るわけでも、有名人を呼ぶわけでもない。まず、今いる客を取りこぼさない。宴会、宿泊、レストランを別々のサービスとして売るのではなく、客がホテルを使う目的ごとに案内をつなぐ。法事。同窓会。家族の節目。親を連れた食事。地域へ戻ってきた人が、複数の用事を一か所で済ませられるようにする。そのうえで、現在の常連客から次の世代へ利用をつなげる。派手ではない。しかし今の沙耶には、それが一番アステリアに合っていると思えた。キッチンへ行くと、由香がすでにコーヒーを淹れていた。「おはよう。顔、固いよ」「そんなに?」「面接受けに行ったときより固い」沙耶は冷蔵庫からヨーグルトを出した。「今日は自分で考えたものを採るかどうか決められるから」「面接だって自分を採るか決められてたじゃん」「それとは違うよ」「何が?」沙耶は少し考えた。「面接のときは、私自身が評価されてる感じが強かった。でも今日は、私が考えたものが使えるかどうかを見られるでしょう。だから……」「自分と仕事を分けられる?」由香に先を言われた。沙耶は少し驚いて
第22話 「やっと仕事に戻ったんですね」久世蒼士へ渡す修正版の資料を仕上げたのは、日付が変わる少し前だった。沙耶は最後のページまで見直し、ファイル名をつけて保存した。『ホテル・アステリア現状分析_改訂版』いったん送信画面まで進み、そこで手を止める。今回は相川を通して久世ホールディングスへ送ることになっている。直接蒼士へ連絡するわけではない。それなのに、提出ボタンを押すだけで妙に緊張した。会議の最後に言われた言葉が残っている。――自分で出した結果まで、先回りして小さくする必要はないでしょう。資料を直すとき、その指摘を何度も思い出した。十一室の宿泊予約についても、以前なら「一件のみであり偶然の可能性も高い」と冒頭から予防線を張っていただろう。今回は違う。『試験運用一件目では、宴会付随の宿泊見込みが五室程度から十一室へ増加した。案内経路を整理したことで既存需要を取りこぼしにくくなる可能性が示された。ただし、現時点では一例のため継続検証が必要である』結果は結果として書く。そのうえで限界も書く。誇張もしない。縮めもしない。たったそれだけのことが、沙耶には思った以上に難しかった。「まだ送ってないの?」ソファでテレビを見ていた由香が、画面から目を離さずに言った。「今送る」「十五分前も聞いた」「最終確認してたの」「十二回目?」「今日は八回くらい」「改善したねえ」完全にからかわれている。沙耶は苦笑して送信した。「送った」「お疲れ」「……うん」「何、その顔。公開告白でもした?」「仕事の資料送っただけ」「じゃあ寝な」「そうする」そう言いながら、沙耶はすぐにはパソコンを閉じなかった。送った以上、もう自分の手から離れた。
第21話 七年ぶりに戻った業界で、私は彼と出会った久世ホールディングスとの打ち合わせを二日後に控えた夜、沙耶は資料の一ページ目を十二回目まで直していた。由香のダイニングテーブルにはノートパソコンとホテル・アステリアの資料が広がり、いつの間にか仕事用の場所として定着しつつある。最初は遠慮して毎晩片づけていたが、由香から「朝また全部出すなら端に寄せとけば」と言われて以来、食事のときだけ資料を重ねて椅子の横へ置くようになった。画面に表示されている一文は、前回から変わっていない。『ホテル・アステリアの問題は、魅力がないことではない。すでにある価値が、客の目的に沿ってつながっていないことである。』問題は、その次だった。十一室の宿泊予約が入った。宴会と宿泊の情報共有を変えたことで、少なくとも一件は取りこぼしを減らせた。レストラン利用者への聞き取りでは、若い世代がアステリアを嫌っているというより、「自分が使う場所として思いつかない」という反応が多かった。そこから、『設備別の販売から、利用目的別の提案へ』という方向性までは見えている。だが、それだけでホテルが立て直るとは言えない。「また消した」キッチンから由香の声が飛んできた。沙耶は驚いて振り返った。「見てたの?」「さっきからキーボードの音が、打つ、止まる、消す、打つ、止まる、消す、なの。聞いてるだけで分かる」「怖いな」「何に悩んでるの?」由香はマグカップを二つ持ってきて、一つを沙耶の横へ置いた。中身はコーヒーではなく、温かいほうじ茶だった。「ありがとう」「どういたしまして。それで?」沙耶は画面を見ながら答えた。「明後日の打ち合わせ、相手が大手だから」「久世なんとか?」「久世ホールディングス。ホテルだけじゃなくて、不動産もレストランもやってる。昔から業界では有名だった」「偉い人が来るんだ
第20話 ホテルが売っていたものを、お客様は欲しがっていなかった十一室の宿泊予約が入った翌日、沙耶は嬉しさをいったん脇へ置くことにした。数字が動いたのは事実だった。しかし、一件うまくいっただけで「改善策は成功です」と言ってしまえば、それまで何度も新しい施策に振り回されてきたアステリアの現場と同じことを繰り返す。なぜ十一室増えたのか。本当に共有方法を変えたことが理由なのか。もともと宿泊する予定だった人が、たまたまアステリアを選んだだけではないのか。確かめなければならなかった。午前中、沙耶は森川から同窓会幹事とのやり取りを見せてもらった。もちろん個人情報に触れない範囲だが、宿泊案内を送ったあとの反応は分かる。「最初は五室くらいって話だったんですよね?」沙耶が尋ねると、森川は頷いた。「幹事さんが把握してたのが五室です。でも案内を参加者全員に回してくれて、それを見た人から個別に連絡が来ました」「何が決め手だったか聞きました?」「二人だけですけど。片方は『宴会終わってそのまま部屋に上がれるなら楽だから』って。もう一人は『朝みんなで食べられるならこっちでいい』って」「料金は?」「安いとは言ってなかったです。駅前より少し高いですし」それは沙耶にとって重要だった。安くしたから取れた十一室ではない。利便性が伝わったから選ばれた可能性がある。「宴会会場と宿泊場所が同じこと自体に価値があるんですね」「まあ、飲む人には大きいでしょうね。駅前まで移動しなくて済むし」「でも、それって今まで積極的に案内してなかった?」森川が苦笑した。「聞かれたら答えてました」「聞かれたら」「はい」客が知らなければ、存在しないのと同じだった。沙耶はノートへ書き込む。『利便性はある。伝えていない。』それだけなら広告の問題にも見える。だが、